1 ひるごろ 或 秋の 午 頃、 僕 は 東京から 遊びに 来た 大学生の K 君 しんきろう くげぬ ま と 一 しょに 蠻気楼 を 見に 出かけて 行った。 鵠 沼の 海岸 に 蜃気楼の 見える こと は 誰でももう 知つ ている であろ う。 現に 僕の 家の 女中な ど は 逆 まに 舟の 映った の を 見、 「この間の 新聞に 出て いた 写真と そっくりで すよ。」 な どと 感心して いた。 あずまや ついで 僕 等 は 東 家の 横 を 曲り、 次 手に 君 も 誘う ことにし あいかわらず ひるめし た。 不相変 赤 シャツ を 着た 君 は 午 飯の 支度で もして いたの か、 垣 越しに 見える 井戸端に せっせと ポンプ を 動かして いた。 僕 は 秦皮樹 の ステッキ を 挙げ、 君に ちょ つ と 合図 をした。 「そっちから 上って 下さい。 —— や あ、 君 も 来て いた のか?」 君 は 僕が K 君と 一 しょに 遊びに 来た ものと 思った らしかった。 「僕 等 は 蜃気楼 を 見に 出て 来たんだ よ。 君 も 一し よに 行かない か?」 「蜃気楼 か? —— 」 君 は 急に 笑い出した。 「どうも この頃 は 蠻気楼 ば やりだな。」 そのうちに 僕 等 は 松の 間 を、 —— 疎らに 低い 松の 間 ひきじが わ を 通り、 引地 川の 岸 を 歩いて 行った。 海 は 広い 砂浜の 向う に 深い tsl 色に 晴れ渡つ ていた。 が、 絵の 島 は 家々 や 樹木 も 何 か 憂鬱に 曇って いた。 「新時代で すね?」 K 君の 言葉 は 唐突だった。 のみならず 微笑 を 含んで いた。 新時代? —— しかも 僕 は 咄嗟の 間に K 君の 「新時代」 を 発見した。 それ は 砂 止めの 笹垣を 後ろに 海 を 眺めて いる 男女だった。 尤も 薄い インバネスに 中折帽 を かぶ つ た 男 は 新時代と 呼ぶ に は 当ら なか つ た。 しかし 女の 断髪 は 勿論、 パラソル や 踵の 低い 靴 さえ 確に 新時代に 出来 上って いた。 「幸福ら しいね。」 うらやま 「君なん ぞは 羨 しい 仲間だろう。」 君 は K 君 をから かつたり した。 蜃気楼の 見える 場所 は 彼等から 一 町 ほど 隔 つていた。 はらば かげろう 僕 等 はいずれ も 腹這いに なり、 陽炎の 立った 砂浜 を 川 越しに 透かして 眺めたり した。 砂浜の 上に は 青い もの がーす じ、 リボン ほどの 幅に ゆらめい ていた。 それ は どうしても 海の 色が 陽炎に 映って いるら しかった。 が、 その外に は 砂浜に ある 船の 影 も 何も 見えなかった。 しんきろう 「あれ を 蜃気楼と 云 うんです かね?」 K 君 は 顋を砂 だらけに したな り、 失望した ように こ からす う 言って いた。 そこへ どこから か鸦 がー 羽、 二三 町 隔 つた 砂浜の 上 を、 齓 色に ゆらめいた ものの 上 を かす ま さが め、 更に 又 向う へ 舞い 下った。 と 同時に 聽の影 は その 陽炎の 帯の 上へ ちらりと 逆 まに 映つ て 行 つ た。 「これで もき ようは 上等の 部 だな。」 僕 等 は 君の 言葉と 一 しょに 砂の 上から 立ち上った。 するとい つか 僕 等の 前に は 僕 等の 残して 来た 「新時代」 が 二人、 こちらへ 向いて 歩いて いた。 僕 はちよ つと びっくりし、 僕 等の 後ろ を ふり 返った。 あいかわらず ささ かき しかし 彼等 は 不相変 一 町 ほど 向う の 笹垣を 後ろに 何 か こ を 通る 時に 「どっこい しょ」 と 云うよう に 腰 を かが め、 砂の 上の 何 か を 拾い上げた。 それ は 瀝青ら しい 黒 枠の 中に 横文字 を 並べ た 木 札 だ つ た。 「何 だ い、 それ は 9- Sr. H. 闩 suji …… UnuEi …… Aprilo …… Jaro …… 1906 …… 」 「何 かしら? ヒ ::: Majesta ::: です か? 1926 としてあります ね。」 「これ は、 ほれ、 水葬した 死骸に ついてい たんじ やな いか?」 君 はこう 云う 推測 を 下した。 「だ つ て 死骸 を 水葬す る 時には 帆布 か 何 かに 包む だけ だろう?」 「だから それへ この 札 をつ けて さ。 —— ほれ、 ここに くぎ じゅうじか 釘が 打って ある。 これ はもと は 十字架の 形 をして いた ん だな。」 しのがき 僕 等 はもう その 時には 別荘ら しい 篠垣ゃ 松林の 間 を 歩いて いた。 木 札 はどう も 君の 推測に 近い ものら し はず かった。 僕 は 又 何 か 日の 光の 中に 感じる 害の ない 無 気 味 さ を 感じた。 「縁起で もない もの を 拾った な。」 「何、 僕 は マスコット にす るよ。 …… しかし 1906 か ら 1926 とすると、 二十 位で 死ん だんだ な。 二十 位と —— 」 「男です かしら? 女です かしら?」 「さあね。 …… しかし 兎に角 この 人 は 混血児だった か も 知れない ね。」 僕 は K 君に 返事 をしながら、 船の 中に 死んで 行った 混血児の 青年 を 想像した。 彼 は 僕の 想像に よれば、 日 はず 本人の 母の ある 害だった。 r 蠻気楼 か。」 君 はまつ 直に 前 を 見た まま、 急に こう 独り 語 を 言 つ た。 それ は 或は 何げ なしに 言 つ た 言葉 かも 知れな かった。 が、 僕の 心 もちに は 何 か 幽かに 触れる もの だった。 「ちょっと 紅茶で も 飲んで 行く かな。」 たたず 僕 等 はい つか 家の 多い 本通りの 角に 佇んで いた。 家の 多い? —— しかし 砂の 乾いた 道に は 殆ど 人通り は 見えなかった。 「K 君 はどうす るの?」 「僕 はどうで も、 」 そこへ 真白い 犬が 一 匹、 向う から ぼんやり 尾 を 垂れ て 来た。 二 K 君の 東京へ 帰った 後、 僕 は 又 〇 君 や 妻と 一し よに 引地 川の 橋 を 渡って 行った。 今度 は 午後の 七 時 頃、 I I 夕飯 をす ませた ばかりだった。 その 晚は星 も 見えなかった。 僕 等 は 余り 話 もせずに 人げ のない 砂浜 を 歩いて 行った。 砂浜に は 引地 川の 川 口の あたりに 火 かげが 一 つ 動いて いた。 それ は 沖へ 漁 に 行った 船の 目 じる しになる ものら しかった。 浪の音 は 勿論 絶えなかった。 が、 浪 打ち 際へ 近づく につれ、 だんだん 磯 臭 さも 強まり 出した。 それ は 海 そ の ものよりも 僕 等の 足 もとに 打ち上げられた 海艸ゃ しおぎ におい 汐 木の 句ら しかった。 僕 は なぜか この 匂 を 鼻の 外に も 皮膚の 上に 感じた。 しばら ほのめ 僕 等 は 暫く 浪 打ち 際に 立ち、 浪 がしら の仄 くの を 眺めて いた。 海 は どこ を 見ても まつ 暗だった。 僕 は かれこれ せん かずさ 彼是 十 年 前、 上 総の 或 海岸に 滞在して いた こと を 思い 出した。 同時に 又 そこに 一し よに いた 或 友 だち のこと (- +P 力 ゆ を 思い出した。 彼 は 彼 自身の 勉強の 外に も 「芋 粥」 と 云う 僕の 短篇の 校正刷 を 読んでくれ たりした。 そのうち にい つか 君は浪 打ち 際にし やがん だま ま、 一 本の マッチ をと もして いた。 「何 をして いるの?」 い 錯覚 かと 思った 為だった。 が、 実際 鈴の 音 は どこか にして いるのに 違いなかった。 僕 はもう 一度 君に も 聞え るか どうか 尋ねよう とした。 すると 一 一三 歩 遅れて いた 妻 は 笑い声に 僕 等 へ 話しかけた。 ぼ つ くリ 「あたしの 木履の 鈴が 鳴る でしよう。 —— 」 しかし 妻 は 振り返らず とも、 草履 を はいてい るのに 違いなかった。 「あたし は 今夜 は 子供に なって 木履 を はいて 歩いて い るんで す。」 たもと 「奥さんの 抉の 中で 鳴って いるんだ から、 —— ああ、 Y ちゃんの おもちゃ だよ。 鈴の ついた セルロイドのお 「じ や 女の 運転手だった の?」 「いや、 勿論 男なん だよ。 顔 だけ は 唯 その 人に なって いるんだ。 やっぱり 一度 見た もの は 頭の どこかに 残つ ている のかな。」 「そうだろ うな あ。 顔で も 印象の 強い やつ は、 」 「けれども 僕 は その 人の 顔に 興味 も 何もな かったん だ がね。 それだけに 反って 気味が 悪 いんだ。 何だか 意識 しき い の 閾 の 外に も いろんな ものが あるよう な 気がして、 J 「つまり マッチへ 火 をつ けて 見る と、 いろんな ものが 見える ような もの だな。」 が、 その 男 は 錯覚ではなかった。 のみならず 互に 近づ くのに つれ、 ワイシャツの 胸な ども 見える ようになつ た。 「何だろう、 あの ネクタイ . ピン は?」 僕 は 小声に こう 言った 後、 忽 ち ピン だと 思った の まきたばこ たもと は 巻 煙草の 火だった の を 発見した。 すると 妻 は袂を 銜え、 誰よりも 先に 忍び笑い をし 出した。 が、 その 男 はわき 目 も ふらずに さ つ さと 僕 等と すれ違つ て 行った。 「じ やおやす みなさい。」 「おやすみなさい まし。」 僕 等 は 気軽に 君に 別れ、 松風の 音の 中 を 歩いて 底本 : 「昭和 文学 全集 第 ー 巻」 小学館 1987 (昭和 S) 年 5 月 ー 日 初版 第 ー 刷 発行 親 本 : 岩波 書店 刊 「芥川龍之介 全集」 1977 (昭和お) 年; 1978 (昭和 S) 年 入力 .. j.utiyama 校正 : かとう かおり 1999 年 ー 月お 日 公開 2004 年 3 月 9 日 正 青空 文庫 作成 ファイル " この ファイル は、 インタ ー ネットの 図書館、 青空 文庫 (http://www.aozora.gr.jp/) で 作られました。 入力、